Species-フラグメンツ- / Sugito Tatsuki
語られぬ話、
封じられた記憶、
記録されなかった言葉、
表層に浮かんでは深遠へ融ける、
その螺旋に刻み込まれた歴史だけが証で、
拾い集めた断片が形成して
枝葉を伸ばすフラクタルの、
これはささやかな末端だ。
fragment-13
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「……気は済んだか」
低く抑えた気だるげな声に、ハーレイは無限に続くかの悪夢のような情景から引き戻された。手のひらは汗が滲んで強張り、渇ききった喉は乱れた息が音を立てて通過する度にひりついて痛む。耳につく繰り返し已まない音は、己の鼓動と、震える歯がかち鳴っているためだと、ハーレイは大分時間をかけて理解した。
言葉もなくブルーを見下ろせば、抵抗した際に留金が外れたか、衣がはだけて白い首筋がさらけだされている。その喉もとはひくついて、僅かに汗ばみ、努めて呼吸を鎮めようと抑えながらも、胸を上下させて息を継がざるを得ない様子があからさまに見てとれた。
背けた面は蒼白で、不規則な呼吸を繰り返す唇はわななき、指先の痙攣が接触した部分からハーレイに伝わって、烈しい内的葛藤を表出する。奥底の血を透かす瞳は虚ろに開かれて、未だハーレイの強張った指が絡んで拘束されたままの、寝台に沈むか細い手を見遣っていた。
内面の乱れは自明でありながら、まるで、どうでもいいといったように、ブルーは呟く。
「禁を破ってまで見る価値あるものなど、ありはしなかっただろう……本当に、
――つまらないことをする」
そして苦しげに目を伏せ、震える唇から吐息をこぼす。
――激しく罵倒されて、殴打された方が、まだましだった。ハーレイは思った。
いつもこうだ、幾度も繰り返し――どうにかして楽になろうと求める毎に、一層に過ちを重ね、重苦しい罪悪の意識に苛まれる。
愚かにも誘惑に負けて、ただ己の不安を解消したいというだけの身勝手な理由で衝動に任せて、そうして、結果がこれだ――
何も生じず、
何も改善しない、ばかりか、
――傷つけた。
陵辱者たちと同じだ。
ブルーを、犯してしまった。
嫌だと、個人的感情を滅多に表出しないブルーが、声を荒げて、はっきり嫌だと言って、拒絶し、抵抗し、懇願さえしたのに、
傷口を抉って、記憶を蘇らせて、さらして、突きつけて、耐え難い苦痛と屈辱を、再びそのままに、繰り返させた。
決して誰にも知られぬよう、頑なにその心に封じ込めていたのに、力任せに破って、引き裂いて、滅茶苦茶にしてしまった。
見ては――いけなかったのに。
「――ハーレイ」
掠れた声に名を呼ばれて、ハーレイは反射的に身を竦めた。だがブルーの無感動なまでに抑制されきった声の紡いだ内容は予測とは大きく異なった。
「キューブを拾って破棄しておけ」
何も考えられずに、ハーレイは与えられた命に従った。一度拾っておきながら再び床やらシーツの上やらに散らばったキューブを、のろのろと拾い集める。ブルーはその間、何も言わなかった。
最後の一つを拾い終えて見れば、もうブルーは瞼を下ろして、こちらの働きかけを一切拒絶する意を表していたから、ハーレイは乱れた着衣を整えてやることも出来ず、そのまま場を後にする他なかった。
――あれが僕か。
ブルーは無感動に、呼び覚まされた記憶の中の幼い身体を思い起こした。柔らかなる肉の構成する身は今はいくらかの成長によって、幼い危うさはしなやかさへ変化し、優美な線を描く。以前は新旧の傷痕の醜く穿たれていた白い皮膚は、嘘のように滑らかに傷一つなくきれいなもので、ただ細身過ぎるのは克服出来ない体質の虚弱を表出して隠せない。しかし瞳は変わらぬ意志を宿し、鋭敏な力強さを湛える――とでも、きっと人々は描写するのだろうとブルーは思った。
――あの子どもは危う過ぎた。
力を制御出来ずに暴走させて、その測り知れぬ強大な力は確かに有事にはそれなりに有効であったといえようが、継続にはあまりに危険だったのだ。
まるで他人事だ、とブルーは感じた。
それはある意味正しい。あの子どもは、あの時に、ずっと昔に、――死んだのだから。
――危ないところではあった。
ブルーは思った。
もう少しで、見られてしまうところだった。
真に封じておくべき、それを。
決して知られてはならない、あの時、何があったか――
己の陵辱を受ける様を見せつけられるのも、他者に見られるのも、それに比べれば、ブルーには些細なことだった。自分は耐えられる。耐えれば良いだけだ。ただ、相当のショックを受けていたように見える、ことの張本人の哀れな様子を思って、ブルーは僅かに痛みを覚えるのだった。
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己の見たものの衝撃が薄れず、ハーレイは自室に戻ってなお、激しい煩悶に苛まれた。どこへ向けるとも判然としない、憤怒、憎悪と、罪責の意識、後悔と悲哀――いちいち名を与えることも叶わぬ程にとめどなく湧き起こる感情がないまぜとなって胸中を渦巻く。
思いもしなかった、といえば嘘になる。大体の察しはついていた。努めて触れぬよう、考えぬように避けてきただけだ。あの華奢な幼い身体が、どれだけ醜悪な欲望の標的となり得たかは自明であるし、最初の行為の時から受け容れることに慣れた身体に触れては、既に「知っている」ことが否でもよく分かってしまう。
だから、ブルーを抱くときはいつも、そんな記憶を薄れさせるように、上から自分自身の証を刻みつけるように、無意識のうちにも図っていたのだ。もっと違う方法で、接触を教えたい、測り知れぬ過去の苦痛を少しでも和らげたい、屈辱に耐えて蹂躙された心を慰めたい、そして自分こそが、ブルーの情動を湧き起こらせたいと、願っていた。
見てしまったことで、今までにない苛烈な情動が生起する。明確になってしまった。憎むべき対象が、かたちを持って、あらわとなってしまった。焼きついた情景を思い起こせば、ブルーの幼い身体を弄ぶ男たちのいちいちを数え上げることが出来る。今はもう亡き者となっていることに疑いようはない、その者たちに対して何らかの情動を抱くなど、不合理であることこの上ない。だが、そうせずにはいられぬ己を、ハーレイは認めた。
あの男の無遠慮な手が、何も知らない無垢なブルーの滑らかな肌を撫でまわして、幼い身体に情欲を教え込んで汚し、か弱い身を押し拓き、貫いて、内も外も、ことごとく、征服した――
ブルーに、あのような――恍惚に浸りきって、陶然とし、苦痛を超えて確かに快楽を感じていると示す、あのような表情をさせた――
浅ましくも、恥辱を忘れるほどに乱し、悶えさせて、貪欲に求めさせた――
向ける相手がないから、これまで、独占欲に身を焦がすこともなかった。過去に何があったにしても構いはしないと思っていた。ブルーをこんな風に出来るのは自分だけで、自分こそが初めてブルーに快楽を与えて感じさせることが出来たのだと、信じ込んでいた。
――それがどうだ。
自分だけのものではなかった。自分より前がいたと、思うそばから、凄まじい嫉妬に身が焼き切れそうになる。陵辱者たちは勿論、それに加えて、――ブルーに対してさえも、裏切られたかの憤りを覚えてしまう、愚かな自分自身を否定出来ない。自分はあの男たちと何が違う、ただ模倣しただけではないか、なぞって繰り返しただけで、代用品で、ブルーは自分を求めたのではないのか――ブルーは――
――自分だけのものの筈なのに。
何かが、ハーレイの中で、僅かにうごめいた。それが何かは分からないまま、ハーレイは己の思考の進むがままに任せた。
――あんな表情をするなど、許せない。
ハーレイは奇妙な感覚に陥った。あたかも既に知っているような感覚。繰り返している。確かに、何かが繰り返している。いつ、どこで、それを探りたくて、なお己の内へと意識を沈める。
――お前は彼じゃない、こんな、汚らわしいもの、
「――そんな、」
ハーレイは息を呑んだ。
赤色光が――赤色光(!?
見たくない、見てはいけない、その先は!
思考を食い止めようと試みるも、加速して解放されていく記憶の濁流は抵抗を許さない。
――こんなものは、ブルーではない、
「あ、ああ……」
憎悪に満ちた、己の声(が蘇る。叩きつけるかの激しい叫び。
――死んでしまえ。
「ああ、あああ――!」
気付いてしまった。何が欠けているのか、どこを繋ぎ直すのか。気付いて、だから、自動的に修復を進行する、記憶の走査と再構築の作業を、止める術はない。呼び起こされる。再び目前に展開される。認識、記憶、意識、明かして、さらけ出す――
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