Species-フラグメンツ- / Sugito Tatsuki
語られぬ話、
封じられた記憶、
記録されなかった言葉、
表層に浮かんでは深遠へ融ける、
その螺旋に刻み込まれた歴史だけが証で、
拾い集めた断片が形成して
枝葉を伸ばすフラクタルの、
これはささやかな末端だ。
fragment-14
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『ブルー』と、ラボラトリで彼は実験者らに、また同じ境遇に身を置く者たちに、そう呼ばれていたが、自らを名乗ったことは一度もなかった。また、改めて問われることもなかったから、自然、人々にとってそれが彼の名だった。
存在は周囲の認識によって成り立つと仮定するならば、そう呼ばれていることは、すなわち名を与えられたそれであることに等しい。
だから、彼は、ブルーだった。
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収容した被験体の自由行動の観察を目的とした巨大な檻のかたちに設えられた装置――実験者たちは"オープンフィールド"と呼ぶ――その中で、ブルーはなおも同胞たちに呼びかけ続けた。
「望みを捨ててはいけない。皆で共に、ここを出るんだ」
ブルーの言葉は、ともすれば何の根拠もない夢見がちな戯言と捉えられた。ラボラトリ構成員たちも勿論その発言を監視機器を通して別室で耳にしていたが、軽く笑い飛ばすだけだった。己の無力を学習した者たちの中でいくら一人が鼓舞を試みようと、まるで意味を為さないことは既に分かりきった事実だ。だから、せいぜい生意気なことを言って気に食わないという程度で、彼らは別段にブルーに対して――その声の影響力に対して、危惧を抱きもしなかった。
「カワイイことを言っているねえ、良いのか放っておいて?」
特に解析を任されたデータもなく、暇つぶしに監視映像を眺めていた男が、愉快そうに感想をもらして同輩に問う。
「ああ、少しは望みを抱かせるのも悪くない。与えておいてから奪ってこそ、有意義なんだと――希望、というのは」
先行研究によると、と但し置きして応じると、男は数時間後に控えた定期報告のフォーマットを埋める作業を再開した。
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「――お前は良いさ」
低い声は、確かな伝達力でもってその場の面々に鋭い情動を突きつけた。反射的に人々の注目を集めるに十分な一言を吐き捨てるように呟いたのは、収容檻の片隅で壁にもたれて座った一人だった。無気力にうなだれる風を装っていたが、その瞳は憎々しげにブルーを見据え、拳は強く握りしめられている。堪えていた言葉を口にしたことで自制が外れたか、周囲の目に刺激を受けたか、その内から激しい情動が溢れ出る。
「どうせお前は助かることになっているんだろう、だからそんなことが言える! 奴等に取り入って、浅ましいまねをして、情けをかけて貰おうと、いつもそうしているんだ!」
ひどい侮辱が、ブルーに叩きつけられるのを目の当たりにして、ハーレイは抑え難い憤りを湧き起こらせた。思わず掴みかかって、今すぐその名も知らぬ相手の口を塞いでやろうとした。実行しなかったのは、ブルーのせいだ。ハーレイが憤怒に囚われつつも、ブルーを見遣って様子を窺えば、彼は当然、愚か者の八つ当たりを厳しく窘めて反省させるべき態度をとっている――筈だった。しかし、実際に見れば、こんなにもハーレイは憤りに支配されているというのに、当のブルーは全く平静そのものであって、僅かにも狼狽や憤怒といった情動の乱れを表出しない。
――なぜ、何も言い返さない。黙っているのだ。
ハーレイはわけが分からなかった。自棄になってブルーを侮辱する、そんな者を放置して良い筈がない。正しく分からせてやるか、若しくは黙らせてやるか、それが望ましい対処だ。
ブルーは無言で、まっすぐに立ったまま、暴言を吐いた相手を静かに見つめていた。怒るでもなく、悲しむでもなく、憐れむでもない。それはあまりにも無感動すぎる反応であって、鮮血を透かすその瞳は何も映してはいないかのようであった。その様子は糾弾者の情動を更にかき立てたらしい。衝動のままに壁が殴られ、場の空気が緊張する。ただ周囲で展開を見つめる他ない面々は息を詰め、あるいは嫌気が差したように目を逸らす。
「望みを持てと言うのなら、希望があると言うのなら、証を見せてみろ! 救ってくれると言うのなら、奇蹟を起こしてみろ! どうせお前も、力がないくせに!」
「生きたいのか――ならば歩め!」
声を荒げるでもない、静かな、しかし揺るぎない、ブルーの一声が、場に浸透する。それは、俯いた者たちの面を思わず上げさせるだけの力を確かに備えていた。今度こそ、糾弾者を含め、誰もが言葉を失った。
真実だったからだ。
叫ぶことを已めぬ限り、抗うことを已めぬ限り、たとえ絶望の淵にあろうとも、その者は――生きたいのだ。生きるべきなのだ。俯く者はまだ顔を上げられる。何もしなくなった時が終わりで、そうでないのならば、――生きられる。ブルーは言った。
いつの間にか、感じていた筈の憤りも拭い去られて、ハーレイはブルーの言葉を一言ももらさずに己に刻み込んだ。深い絶望の中にあると思っていた。いくらもがいても逃げ道のない闇と、諦めかけていた。その中で捉えた、一点の光に似た、迷いない言葉に――射抜かれた。事態の楽観視でもなければ、現実逃避でもない。ブルーの声はどこまでも真摯であって、力に満ちている。
強い意志を保ち、このような停滞し澱んだ状況にあってなお輝く、その様に崇高ささえ覚える。
――生まれながらの指導者――そんな言葉が浮かび、彼を形容するに実に相応しい、とハーレイは素直に思った。それはやや情緒的すぎるかという程度の、他に特筆すべき点もない純粋な感想だった。他意もなく、ただそれだけの些細なことで、だから――その実、この上ない皮肉でもあったなどということには、気付く筈もなかった。
彼は自分にとっても、また他の人々にとっても特異な存在であって、道を示す力強い指導者なのだと、ハーレイは納得した。
心を強く引きつけられて、ハーレイは、彼に、ブルーに、つき従おうと思った。出来る事なら、この多くの人々の中でも、特に近しくその傍らに在ることが出来たらと、切に願った。
けれど、その純粋な憧れによるのとはどこか異質な疼きを、ハーレイは否定出来ず湧き起こらせていた。
何か決定的な審判の下ることへの予期不安、恐怖、そして僅かな希望と、打ち砕かれる前に自らそれを抑圧しようとする葛藤。事態の急激な変化は、哀れな被収容者たちそれぞれの精神状態を、程度の差こそあれ、いずれも安定を欠いて切迫したものへと導いた。先の暴言などその最たる例だ。
注目を浴びざるを得ない容姿に対してあまりに無頓着すぎるように見える、ブルーの無防備なその様は、追い詰められた者たちにとって、隙あらば鬱屈の捌け口にしてやりたいという原初的な衝動を呼び起こす。ブルーは異質だった。異端者たちの中に一緒にしてひと括りにすることは出来ない程に、ブルーだけは、独立の存在だった。今まさに一つの檻の中に囚われていても、他の者にしてみれば、同じ空間を共有していないという印象を拭えない。立脚点が異なる気がするのだ。あれ(は、もっと、別の何かではないのか――自らが迫害を受けていながら、なお、ブルーに対して境界を設定し、同胞とは異なるカテゴライズを行った。自分たちとは違う何者かの存在は、それゆえに自集団の同胞意識を高める。非道なるラボラトリの実験者たちと同様の分類を行っていることも知らず、その時、囚われ人たちの内には、ブルーは違う、違うのだから構わない、本来なら躊躇われることでも、構わない――という意識が確かに働き、思考を支配していた。
ブルーは違う(。存在に現実味がない。それは各人の内に都合良く想像をかき立てた。ある者にとっては、いかなる祈りも達成してくれる望ましい救い主に、またある者にとっては、歩むべき道を示す突出した理想の指導者に、またある者にとっては、得体の知れぬ破壊衝動の対象に。リアルでないから、伴うべき罪悪感もない。
思うがままに奪えたら、どんなに良いだろう。か細い足首に手をかけ、掴み上げて、貶めるのだ。平静な声を乱してやる。白い肌に、印を、証を、確かに刻みつけて、汚してやる。その瞬間の恍惚、一瞬の衝動を、抑えず放出したい。
――何ということを考えてしまうのか。
彼に憧憬して已まない、その一方で、相反するように己の抱く暗い情動に気付いて、ハーレイは激しく自己嫌悪した。違う、と自分自身に言い聞かせた。ブルーは、そんな者ではない。そんな対象にしていい者ではない。彼は誰にも独占して所有されてはならない。誰も彼に触れてはいけない(。ハーレイにとってブルーは、迷う己をその声で導いてくれる道標であり、また同時に、何としても護らなくてはいけない存在だ。それは全ての同じ境遇の仲間たちのためでもあるし、何より自分自身が彼を失うことを堪え難いためであった。強靭なる意志に反して、初めて逢った時から、不安定で頼りない、その身を自分こそが護りたい。自分は時に愚かな妄想に耽る恥ずべき者であるけれど、自覚しただけ良い。他の者が同じような思いを持ってブルーを貶めようなどとすれば、必ず自分が護るのだ。ハーレイは己に誓った。
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