Species-フラグメンツ- / Sugito Tatsuki
語られぬ話、
封じられた記憶、
記録されなかった言葉、
表層に浮かんでは深遠へ融ける、
その螺旋に刻み込まれた歴史だけが証で、
拾い集めた断片が形成して
枝葉を伸ばすフラクタルの、
これはささやかな末端だ。
fragment-15
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それは唐突であった。
収容檻の天井から注いでいた青白い光がかき消え、一瞬にして完全な闇に閉ざされたと思うと、いくつかの赤色光の照明に切り替わる。同時に四方から無機質な重低音が空間を覆い、暗赤の薄闇に反響する。
何事が起こったかと、恐怖と焦燥に満ちたざわめきは、すぐに苦鳴へと変容した。
呻き声をあげ、あるいは耳を塞ぎ、頭を抱え、首を振るい、一様に床にうずくまる。
――サイオンパターンに干渉し、発生源たる主の正常な脳神経電導を阻害する、強力な特殊磁界が構築されたのだ。Mの証たる思念波とも呼ぶべき波形の特異性を利用したそれにおいては、サイオンの表出が増大する毎に、干渉の効率も著しく上昇する。未だ己の能力の全容も知らず、抑制の術も心得ぬ者たちは、苦痛を逃れようとするばかりに一層に拒絶の防壁を巡らし、逆にそれだけ干渉の影響を受け、実験者の狙い通りに精神活動を撹乱させられる。
このまま、一斉に――処分、されるのか――
ちらつく絶望、死の恐怖にその場は呑み込まれ、相乗的に支配力をもって、一人一人の胸に僅かに抱きかけた希望の芽を容赦なく摘み取っていった。
呻いては床に崩れる仲間たちの中にあって、ブルーは、立ち上がりかけ、しかし平衡感覚を失ってよろめくと膝を折った。それでも頭を抱えてうずくまりはせずに、苦鳴を押し殺しながら顔を上げ、大仰な格子のその向こうを厳しく見据える。まるで、今にもそこに相対すべき敵の現れるように。
「――オープンフィールド実験もこれが最終段階ってところか」
「もう間もなく実験終了、頑張ってデータをくれたネズミくんたちともお別れか、悲しいな」
雑談をしながら、実験者たちは巨大な"オープンフィールド"の格子の前に立った。一人が感嘆の声を上げる。
「本当にMどもだけに作用している! もっと出力を上げたらどうだ?」
「いや、そうなるとノイズの影響を無視出来なくなる。我々人類の害となっては一大事だからな」
「そうそう、だからこれで簡単処分するんじゃなくて、あんな大がかりな方法をとるんだろ」
実験者らのうちの一人がロックを外し、何ら恐れることなく格子の一部を上げる。もがき苦しむ者たちの様を見渡して、男は同僚らに問うた。
「どれにする?」
簡潔な問いかけは、あたかも昼食のメニューを選ぶかの気安さであった。応じる者も調子を合わせ、これからの場面においては他に選択肢など存在しない、その決定づけられた一体のMを指さす。
「そうだな、じゃあその健気なシロネズミくんをひとつ、貰おうか」
男たちが連れ立って"オープンフィールド"に足を踏み入れるや、条件づけられた恐怖によって、哀れなる異端者たちはおののき、身を引き摺って後ずさった。その場に留まったただ一人を残して、空間が拓ける。
「おや、どうやらこのシロネズミくんは効きが悪いようだ。いけないなこれは」
か細い腕を床面についてその身を支え、苦しげな息を吐きつつも面を上げて鋭い目を向ける、ブルーを実験者たちは取り囲み、非情に見下ろした。
軽口を叩いた男が、どこか楽しむように、片手に収まる"護身用具"を取り出して手の中で弄ぶ。その先端にスパークが起こり、薄闇に小さな閃光を発するのを見て、ブルーは唇を噛み締めた。
「凶暴なMを相手取る極めて危険な職場において人員に支給される電撃式護身用具」は、過剰防衛などという、対等なる権利を有する者同士の間に限ってのみ成立する概念の存在しないこの場においては、用いる場合はまず間違いなく確かな効果を発揮するよう、通常より出力が高められ、辛うじて殺傷能力はないといえる程度の代物であった。しかし厳重にその特殊能力を抑制されてはただの無力な囚われ人にすぎない被験体を収容するラボラトリにおいては、実際必要に迫られる事態はまずあり得ない。だから、それは専ら実験者たちの退屈しのぎの道具として、被験体の虐待に用いられた。
音を立てて放電を起こす、その先端が、満足に回避行動をとることも出来ない、ブルーの肩口に押し当てられる。
「うあ、ア――!」
電撃が無慈悲に神経を駆け抜け蹂躙する、極めて強烈な衝撃に、悲痛な声が上がり、頸部を仰け反らせた幼い身体が跳ねる。がくりと腕が折れ、支えを失った上体は揺らぎ、力なく床に崩れる。
あたかも他のMどもにその効果を見せつけ、恐怖を煽り、妙な気を起こさぬよう念押しをするかのような実演の威力は自明だった。目の当たりにした情景に、無力な囚人たちは恐慌に支配され、怯えきっていた。
「――ご覧の通り、当オープンフィールドの機構は全てのMについて有効となっております! ぜひ一家に一台ご設置を!」
「おいおい、データ捏造かよ」
「なに、外れ値を排除したまでさ」
「プロフェッサー、本日の実験の命題は何でありますか?」
「うむ、それは『他個体の嫌悪的情動反応が個体に及ぼす効果及び行動変容についての一考察』に集約されるだろうねえ」
当人たちのみはウィットに富むと思い込んでいるふざけた冗談を交えた会話を交わしつつ、その中の一人が倒れ伏したままのブルーの力ない身体をぞんざいに仰向けさせる。
身体の自由を奪われ、混濁しかける意識で、なおブルーは、己を取り囲む男たちを見据えた。そう睨むなよ、と幼い身を組み敷いた男が軽く笑う。
「それで威嚇のつもりか? 本当、カワイイよ」
特徴的な口調から、ブルーはその相手が、いつも"ホームケージ"の様子をチェックに回って来る際に「今日もカワイイな」などと軽口を叩いている者であることが分かったが、だからといって何か事が有利に展開するわけでもなかった。
どうしてやろうかとじっくり思い描くようにブルーを見下ろしていた男は、その上衣に手をかけ行動に移る前に、一旦顔を上げると、周囲で怯えつつ様子を窺うMどもに宣言した。
「よく見ていればいい、こいつに何を期待しているか知らないが、こいつはお前たちの救世主でも何でもない――ただの薄汚れた化け物だ!」
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――死んでしまう。
赤色光の下、延々と続く行為の非道な光景に、ハーレイは、ブルーが死んでしまう、と思った。いけない、やめろ、やめてくれ! ブルーに触れるな! 胸の内で叫ぶ悲痛な懇願は、しかし、聞き届けられる筈もなかった。どうすることも出来ない。立ち上がって、陵辱者に掴みかかって、ブルーを救い出してやることが――出来ない。無力な自分は、ブルーを、守ることが――出来ない。
反逆を試みようともせず、他の誰もと同じく怯えきって、ハーレイは、身を縮めて、ただひたすら、目につかぬよう、出来るだけ壁際に寄って、息を殺した。見たくない、ブルーのそんな姿、聞きたくない、ブルーのそんな声、けれど、目を逸らすことは出来ずに、行為の一部始終を、薄闇の中から、目にしていた。
憤りか、恐れか、何か分からない、じわりじわりと胸を圧迫するひどく嫌な息苦しい感覚が身体の奥底から湧き起こってくる異様な感覚を、ハーレイは覚えた。これも赤色光のせいなのか――乾ききった唇を、舌で濡らして、震える息を吐いた。
「おい、見ろよ、あれ」
狂宴の中心を取り囲んだ男の一人が、面白いものを発見したように仲間に耳打ちする。告げられた方も、視線で示された先を見てすぐに意味を解し、軽く関心を抱いたように頷く。
「な、面白そうだろ」
視線の先は、今まさに場の中心にあって数多くの目に取り囲まれながら陵辱を受ける一体の異端種ではなく、哀れにも壁際に身を寄せて怯えきった者たちの中に向けられている。
僅かな希望たり得た存在が目の前で奪われ、弄ばれ、汚される、容赦なくつきつけられる無力さと絶望に打ちのめされるMどもの中から、しかし、異なる目を持つ者を、実験者たちは見逃さなかった。
それは明らかに他とは異質だった。
薄暗い闇の中で、赤色光を反射する、その瞳の燃え上がるかの激しい輝き、無意識のうちに唾を呑み下し、乾いた唇を舐めて、目を背けずに目前の情景に見入る様は、屈辱や憤怒ゆえというよりも、まさしく――獲物を捉えて生起した情欲の表出であった。
実験者たちは、その個体が、かつて一度、オープンフィールド・プレ実験でブルーと接触を持っていたことに思い当たると、ささやかな余興を持つことにした。
「ミュウってのは案外、薄情なものだな。お仲間がこんな姿をさらされてるのに興奮するのか、こいつはいい」
ブルーは、己を弄ぶ男たちの注意が他へ逸れたことを感じて、熱に浮かされた瞳を動かすと状況を知ろうと試みた。そして、彼らの関心が、ブルーにとって何をおいても最優先で守らなくてはならない、怯えきった同胞たちの方へと向けられていることに気づくや、途端に色を失う。焦燥もあらわに、飛び起きようと拘束に激しく抵抗する。
「やめろ、放せ! その子に手を――!」
腕をのばしての必死の叫びは、哀れにも腹を蹴り上げられて、呻き声にしかならなかった。
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