Species-フラグメンツ- / Sugito Tatsuki
語られぬ話、
封じられた記憶、
記録されなかった言葉、
表層に浮かんでは深遠へ融ける、
その螺旋に刻み込まれた歴史だけが証で、
拾い集めた断片が形成して
枝葉を伸ばすフラクタルの、
これはささやかな末端だ。
fragment-17
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自ら訪れるに足りる理由あってのことだろうに、しかし寝台から離れて立ったまま、ハーレイはうつむいて、それ以上一歩も近づこうとはしなかった。静寂とは異なる、重苦しい沈黙が、ブルーにそれ(を伝えた。――すなわち、失われた過去の回復である。
――ああ、矢張りこうなったか、とブルーはどこか納得のいく解を得た心持ちで、僅かに目を細め、じっと佇む影を見遣った。あくまで歩を進める気はないらしい。変わらないな、とブルーは思った。
この子はいつも、そうだった(。
いつも、それこそ出逢った時から今に至るまでずっと、ハーレイはブルーを見つめていた。その瞳は常にブルーを捉えていた。どれだけ離れていようとも、どれだけ密かに盗み見ようとも、ブルーにははっきりとそれが分かった。
心を悩ませ、焦がれ、躊躇う切ない情動が、本人の意にかかわらず、こぼれて、ブルーの欠落に触れてくるから。
それはあまりに切実で、繊細で、悲しく温かかったから、ブルーは、振り払うことが出来なかった。ハーレイのためというより、むしろ、自分自身のためであった。
少しだけ、心安らぎたかった。時には募る想いが強すぎて、ブルーに迫り、息苦しくさえあったけれど、拒むことなく、ブルーはハーレイを受け容れ続けた。
そうして、自他にはっきりと境界を置き厳格にそれを守り通すブルーが唯一、触れることを許した(――そのことを、ハーレイは知らない。ブルーは何一つ、それらしい証を表出しなかった。だから、ハーレイは、覆い隠した己の思いは、決して知られず心の底に封じてあると信じ込んでいる。
物理的距離は、決して近かったわけではない。容易に身体の接触するほど近しい位置に身を置きあっていたわけではない。むしろハーレイは、度を越してブルーに接近することを避けた。失った記憶に起因したのだろう、明確に理由を挙げられなくとも、それはハーレイにとって、破られてはならない厳格な規律だった。
――憶病な子のままだ。
ブルーは記憶を再生する。
ラボラトリで、初めて出逢った時、その思念を感じてまずブルーが抱いた印象は、ひどく憶病な子どもだということだった。目の前の事態に対して、自ら進んで関わろうとすることはなく、距離を置いてただ戸惑うばかりの、そんな子どもだと思った。慎重というべきか、――それはすなわち、一つ行動に移るのに多大な労力を要するということだ――ブルーにとっては、見ていて苛々としてくるほどであった。
"オープンフィールド"で初めて接触した時など、ブルーが声をかけて次の行動の指示を与えてやらなかったならば、きっといつまでも片隅で外界を拒絶し膝を抱えて固まっていただろう。
直情的な面の強いブルーにとって、そんな風に行動を保留してあれこれ思い悩み、シミュレートを繰り返し、望ましい解を導き出して初めて動くというのは、どうにも非効率に思える。これしきのことを実行するのに、どうしてそんなに考えることがあるのか分からない。簡単なことだ、やってみなければ分からないし、次に何が起こるかなんていくら考えたところで完全に予測できるわけでもない。それならばまず自ら動いて確かめて、それからまた次を見て柔軟に対処すればいいと思ってしまう。勿論、思慮深さの重要性も理解はしている。助けられたことも数多いし、必要な面においては力を借り、頼りにしている。だから、ただ個人的印象に限っていえば、ということになるが、ブルーにとって、ハーレイの慎重さは、臆病な子どもという意味に等しい。
新奇な場面に遭遇すると、動きを止めて、その場で固まってしまう。まず頭で理解して、それから次の行動に移ろうとするけれど、突然のことに思考は上手く働かない。立ち尽くすばかりで、答えを出せず動けぬまま、時間は無慈悲に過ぎて状況は変化し、結局、何も出来なかったという事実だけが残る。
あの時ああしておけばと後悔しても、それを次に活かすことが出来ない。それより、自分は矢張り無力だった、またこうなってしまったと過去を繰り返し追想し、どうせ何も出来ないのだと、己を更に悲観的認識で縛って規定してしまう。そしてますます頑なに、規定された自己たろうとする悪循環に陥る。
その役職において求められる決断力は十分に発揮していながら、こうした明確な正答の基準のない、個としての判断場面になると、いつもどこか躊躇って、自信なくうつむいている。
――まだ、僕の声が必要なのか、とブルーは思った。
まだ、『ブルー』に囚われ、その許可を必要としている。
――仕方がないのかも知れない。
ハーレイがブルーに接するとき、根底にあるのは、常に意識の届く領域より深みに沈み込んだ、罪悪感だ。わけも分からないままに、罪の意識に苛まれ、赦しを請う。許して欲しいと望み、しかしそれは叶わない、決して自分は許されない、許されてはならないと知っているという矛盾に陥る。どうしたらいいのか、分からない、だから教えて欲しいといってすがる。何でもするから教えて欲しい。何も出来ないことほど辛いことはない、だから、たとえ偽りでもいい、何か、すべきことを、与えてくれと、道を示す声を求める。
これまで、ブルーはそれとなく、ハーレイのそのような不適切な思考パターンに働きかけて、少しでも改善すればと手を打ってきた。己を信じ、受容し、誇ることを促した。――けれど、はじめから無理があったのだ、とブルーは思う。そもそもブルーこそ、自己受容とは程遠いところにあって、ハーレイとはまた違ったベクトルで、歪んだ自己概念に苦悩しているのだ。そんな自分が、他者の認知システムをどうにかしようなど、おこがましいにもほどがある。――それに、一時、思いのままに行動させたところで、ハーレイはまた自らを抑圧し、そのように行動してしまったことを後悔ばかりしている。これでは逆効果だ。
さて、声をかけなければいつまでもそうして立っているつもりなのだろう、とブルーは口を開きかけた。
――声は、発せられなかった。
不意に寝台へ早足で歩み寄ったハーレイが、ブルーの身に圧し掛かるや、片手でその喉を押さえ込んだからだ。
「――あの時、こうしたかった」
手が、細い頸部を圧迫する。かかる重圧に、寝台が軋んで沈み込む。
「いつだって、情動のままに動いたことなどなかった。あなたのせいだ、――思い出した。あなたをこうしたかった」
ブルーは今一度、声の出せないことを確認すると、ゆっくりと目を閉じた。首を押さえつけるハーレイの手の、已まぬ痙攣が明瞭に伝い感じられる。
押さえ込まれた場所から、じわりと熱が生起して這い上がる。圧迫する指の感触に、その温度に、脈動に、身体の内奥が刺激されて震える。脳まで侵して思考を麻痺させる、熱にブルーは――身を委ねた。自他の別なく、融け合うのではないかと思った。
手は、気道を圧迫してはいない。自重を寝台についた指先で支えて、首には優しく触れているだけだ。
――あなたの首を、絞められるわけがない、とハーレイは思った。
あの時、確かに願った。その細い首に、手をかけたいと。それは彼の死を望んだのではなかった。そうではなくて、――声を、封じられれば良かったのだ。今や、ハーレイは確かに依って立つ過去を辿ることが出来た。「あの時」と呼ぶ、抱えて生きるにはあまりに酷で、封じて失われていた記憶さえ、鮮やかに追想する。
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我々は、希望の象徴たるブルーが貶められる光景に、僅かな望みを断ち切られる。
ブルーは、我々の絶望することを何より堪え難い。
だから、実験者たちの計画は、この上なく効果的だった。
恐ろしかったのだ。
ブルーを失うことが恐ろしいのか、その結果としての自分の死を予期して恐ろしいのか、どちらだったか分からない。ただ、立ち向かうことが出来なかった、という事実だけが、全てを物語っている。ひどい頭痛のせいで、無力にも地に這いつくばって呻くしか出来なかった。仕方がなかった――というのは、真実ではない。
本当は、立ち上がれた筈なのだ。立って、非道な行為に及ぶ者たちに掴みかかることだって、出来たのだ。
ブルーの言葉は正しかった。我々には力があった。だから、何も出来なかったのではなくて、――何もしないことを、選んだのだ。
当時、完全なるサイオン抑制の術は未だ確立されていなかった。だからこそ我々はラボラトリを脱出し得た。すなわち、あの時"オープンフィールド"でこの身から力を奪っていたのは、赤色光でもなければ不安定な磁界でもなく、何よりも、自分自身に対する無力感だったのだ。自ら力を規定し制限して、何もかもが無駄であると信じ込んで、そして、立ち上がることを忘れてしまった。望みは達成されないと決めつけ、それならばはじめから試みない方がましだとして、行動を起こすことを拒んだ。一時は強く心を引かれた、ブルーの言葉を、簡単に棄て去った。
それで、自己を守ろうとしたのだ。
あの時、紛れもなく自分は――生きていなかった。
抵抗の意思もなく、それゆえ行動することなく、ただ恐怖に震えて、彼が誰かに蹂躙される様を見て、己の支えの砕ける音を聞いた。目を覆い、耳を塞ぎたくとも、叶わなかった。
あの時、自分は何もしなかった。それが自分の抱える罪業で、堪え難い欠落なのだ。
あの地獄のような行為の後に、僕は大丈夫だ、お前も大丈夫だと、必死でブルーは、言い聞かせるように繰り返した。
「お前は悪くない。何も、悪くなどない」
ハーレイに対してだけではない、恐らくはそう口にすることで、自分自身の認識も規定する必要に迫られていたのだ。それが、ブルーが自らの心をその手に繋ぎとめ、何とか崩壊を逃れて守るための、唯一の手立てだった。
ブルーは、何も失わないように、全て守ろうとした。仲間の全てを、そして彼らのために必要な存在としての己を、守らなくてはならなかった。その第一の目的のために、取り得た最良の選択は、実際、成功したといっていい。だから、犠牲はたった一つで済んだ。
人々は、ブルーの姿に光を見た。堕とされてなお蘇り、何にも汚されぬ、崇高なる魂の輝きを、確かに捉えた。絶望の淵から、皆がそこで、救われていたのだ。ただ、一人――ブルー自身を、除いて。
ふらりと立ち上がると、誰の支えも借りず、ブルーはゆっくりと、よろめきながら、一歩一歩、歩んでいった。格子の上から厚い防壁が下がって堅く閉ざされた扉の前に立つと、ブルーはおもむろに、その細い腕を持ち上げ、
――嵌め込まれた窓を殴る、鈍い音が響いた。
先の静けさが嘘であるかのように、烈しく、ブルーは続けて何度も何度も、外界へ連なる光の射すその窓を、叩いた。憤りと悲哀との入り混じった強い情動が、とめどなく溢れる。
ブルーは、自ら行動してみせた。
――何一つ、動こうとしなかった、我々の目の前で。
腕を打ちつける。
息を乱しながら、叫びを上げる。
その場の全ての者を代弁するかの如く、生への意志を持って吼える。
それでも――
それでも、我々は――
――何も、しなかったのに――
彼を創り上げたのは、我々だ。
彼は敵を許したけれど、我々をも許していたのだ。
何をしようともしなかった、ただ彼にすがることしかしなかった、そうして彼を、犠牲にした、我々を。
彼が身を差し出したのは、敵に対してではない――我々に対してだ。
彼を拘束し、搾取し、屠ったのは、――我々だ。
彼は、その我々を見つめながら、何も言わず――口を開きさえしなかった。
黙ったままで――最後まで。
--+-
ハーレイは己の解釈を確信して続けた。
「あの時、だったのですね――あの時、私が、あなたを」
重ねられていく言葉を、肯定も否定もせずにどこか遠く聞きながら、ブルーは内省する。
罪などなかった。
彼は殺していない。
ハーレイは過去に誰の首にも手をかけたことはない。ただ、そうしたいと、強く思っただけだ。それだけで罪とみなすのは、あまりに酷というものだろう。思うのと、実際に為すのと、それは近しく似ていて、けれど容易には越えられぬ境界がある。
なかったことは、罪にはならない。
それでも、とブルーは思った。それでも、不必要なまでに執拗に、事象の理由を己の内へ内へと探し求める傾向のある、我々にとって、思った時点で、願った時点で、それは、為されたと同等の重みを備える。
最早、実際それがあったか否かなど問題ではない。罪人は己の過誤を嘆き、犠牲者はリアルに受け取った強い情動に引きずられて、あたかも実体験のように記憶する。
――我々にとって、現実と妄想とは、分断出来ずに入り混じって、どちらが主でも従でもないのだ。
一つ、大きな思い違いがある。
自分たちは、依って立つ大前提を、互いに共有していない。だから、事象の意味も同一性を保たない。世界がその意味を反転するほどに、二人は違うものを見ている。どこまでも交わらず、決して通じ合うことなく、少しも分かりあえないままに、時を重ねてしまった。
あの時ではない(。
そうではないのだ。
こうなることを、決定づけたのは、あれではなかった。
それを、しかし、ブルーはハーレイに明かすつもりはなかった。
ありのままの事実は、決して、ありのままの意味だけに限って捉えられることはない。
その事実は、純粋に飾りないその、ほんの些細な事実は、きっと――その心を完全に打ち砕くだろう。その生の意義を根底から否定するだろう。その信念をことごとく無に帰すだろう。
だから決して、知れてはならない。
誰が、ブルーを殺したのか(。
その思考の一片すら表出することなく、ブルーは、求められた自動的な答えを紡いだ。
「――そうだ。あの時、お前が、僕を――」
これでいい。
これが、最後に、為しておくべき責務だった。
偽りこそが――救済の福音となる。
原因を己の内に求めて帰結するのは、悲観思考のようで、しかし実際のところ、とてもポジティブな方略だ。事象の原因を自分のゆえとすれば、説明づけることが出来る。納得することが出来る。「分からない」ことほど恐ろしいものはない。手に負えない、為す術はないと、己の無力を突きつけられるからだ。
自分のせいにするのは、だから――自分にはそれだけの何かしらの影響力があり、確かな存在であることを証出来るという、一種の自己防衛であり、生きるためには必要な仕組みなのだ。
これしかなかったのだ。全ては既に、決定づけられていたのだから。
書き上げられた筋書きにいくら抗おうと、定められた役割を打ち破るべくもない。
ならば、これが、この、歪んだ世界こそが、真実だ。
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