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彼の両手の中で / Sugito Tatsuki





彼の両手の中で、僕は苦悶し息喘ぐ。
やめてくれ、こんなのは違う。
嫌だ、どうか放して。
赦してくれ。
僕の首を絞めないでくれ(...........)! 



-2-








ブルーの何に惹かれるといって、ジョミーは順序立てて論理的に説明出来ない。それは言葉に言い表せない崇高な神秘性だ、などと思考停止した都合良い陳腐な台詞を述べることもない。描写する努力を最初から放棄して、便利で凡庸なフレーズを使い回して、何かを表現したつもりになって満足する愚は犯さない。それは何も言っていないのと同じことであるし、何も見ていないのと同じことだからだ。事物から何かを感じ取ることは誰だって出来る。言葉に出来ない何かを心に感じたと言うことは誰だって出来る。そうして誰も彼も皆、異口同音に何かを感じた(......)と感想を述べる。
同じ感覚で、同じ言葉で、同じ思考で、均質な同じヒトになっていく。個が消えていく。言葉を失い、自我を失う、それはジョミーにとって受け容れ難い。拙い表現を尽くして、自分の内面に湧き起こる情動のありようを記述しようと試みるのは、他人に説明するためではなくて、自らを理解するためだ。自分の心さえ説明できない。だから、少しでも知ろうと努めるのだ。

答えの判然としない曖昧な問いを、外周から刃を入れて削ぎ落としていくとする。明瞭な答えを出せるまで、無遠慮に削っていく。自由度を失くしていくほどに、問いは答えるに容易となる。

どうしたいのか。分からない。
どうしてこうしたいのか。分からない。
何に惹かれるのか。分からない。

ただ、一つだけ大事なものを挙げろというならば、それは恐らく、首ということになるのだろう。
ブルーの、首。それが、どうしようもなくジョミーを引きつけるのだ。それも、美しいものを尊重して崇め奉りたいという畏怖と敬愛の情とは全く異質な、衝動とでもいうべきものによって。そうしなくてはならない(...........)という強迫的な観念が、初めから自分の内にある。自我の上位の認識出来ない領域が支配して、行動を強いている。限りなくシンプルで利己的な何らかの判断基準に基づいて、有益な結果をもたらすために。

譬えるならば、それは飢餓だ。飢え渇き、意識の全てが渇望に染まったとき、目の前に差し出されたものを評価する基準は一つしかない。そして、食い物と分かれば、それは喰らうべきものとして以外の価値を持たない。迷いなく、疑いなく、躊躇いなく、心身の赴くまま存分に、喰らうだけだ。その時、高位の精神活動は役立たずの邪魔者として隠蔽される。
ただ、喰らう。生きるために、喰らう。それは少しも間違っていない。
しかし、理性を至上するヒトは、剥き出しの欲求を嫌悪する。自分の意思も何も実は信頼に足りず脆弱で、苛烈な欲求の前には簡単に覆されてしまうものだと、否応なく認めさせられてしまうから。崇高な機械に近しいことこそを誇りとする、己の拠り所を奪われてしまうから。けれど、どんなに否定しても、拒絶しても、意識の根底に、あるいは上位に渦巻くそれが、全ての生を繋いで動かしている。ヒトを支配し、突き動かしている。

喰わなければ生きられないと、個体に危機を教えるシグナルとしての飢餓感。ジョミーが抱える不快な焦燥は、そういう衝動に近い。
常に極限まで追い詰められたかの状態。思考を持たずに、認識だけで動かされている感覚。螺旋に刻まれた原初の本能よりも遡って、形成された反射なんて高次のものではなく、ずっとシンプルに、光の方向へ集まる単細胞生物の走性に似ている。嗜好があって、行為に及ぶのではなくて、行動が先行して、意識が追従している。
憎いから、嫌悪するから、力を振るって傷つけたいと欲するのとは全く異なる。ましてや縊り殺してやりたいだなんて願望は、頭の片隅を過ぎったことすらない。手段としてこうするのではない。こうすることが目的だからするのだ。


その細い頸部を無防備にさらして、横合いから咬みつきたい。
柔らかな皮膚に牙を突き立てたい。
埋め込むように押し動かしたい。
この両手は、柔肉に食らいつく顎の代わりだ。欲するままに、ジョミーはブルーの頸部に絡ませた手に力を込めた。意識を集中すれば、指先は驚くほど明瞭に神経を研ぎ澄ませる。

柔肉の薄い層に包まれた、頑なな根幹。神経と神経、血管と血管、細い身体を網羅して走るものを繋いで流し、肉体と精神を結ぶ架け橋。握れば温もりと、硬い弾力が伝わって、その意外な頑健さを教える。均質で滑らかな表層も、指先で押し込んでみれば、その下で精巧に構成して詰められた内部器官の感触が伝わる。両手を巡らせると丁度揃えた指がかかるのは、頼りない頚椎だ。繊細な神経を護る、小さな殻。圧し潰すのはそう難しくないように思える。
とても大事な箇所の筈が、こんなにも壊すに容易い。神経を切断することも、血流を止めることも、気道を塞ぐことも。幻想ではなく、確かな選択肢として両手の中にある。紛れもない実感を捉えて、ジョミーは思わず喉を鳴らした。
間に合わない。今更、もう間に合わないのだ。何事もなかったように手を引くことは出来ない。望んでしまったのだから。欲望を抱いたのはこれが最初ではない。欲している。あなたの首を、欲している。
力を加える毎に、うるさいくらいに鼓動が高まり、心臓から焦燥が這い上がる。頭蓋を巡る血液の熱が脳を溶かし、思考は蕩けて神経線維がぶつ切れていく。構わない。何も考える意味などない。何も学ばず、ずっと同じところで堂々巡りを繰り返しても。時の概念を失っても。苛烈な熱が己の身を末端まで満たしていくのを、ジョミーは自覚した。

熱い血流が分かる。
皮膚が紅潮している。
鼓動がとても高まっている。
上気した頬は汗ばんで、瞳は潤い蕩けている。
感じているのだ。
他でもない、自分自身が。

頸が熱く、荒い呼吸は渇ききった喉を焼くようだ。息苦しく、ぬるつく唾液を上手く嚥下することも出来ない。眼窩の奥から、口腔の突き当たりから、込み上げる圧迫感。腹は痙攣して、思い通りにならない内臓は揉み込まれた挙句に反転するかのようだ。昂りきった鋭敏な神経が捉える鮮やかな視界は目まぐるしく揺れ動いて、耳鳴りは已まず、纏わりつく不快な熱を振り払うことが出来ない。
薄い皮膚に直に押し当てた指先は焼き切れそうに熱く、蕩けて癒着してしまいそうだ。あるいは、もう既に外すことが出来なくなっているのかも知れない。小さく震える指先は、しっかりと首に巻きついたまま固定して、少しも動かないではないか。力を込めて肉に食い込ませることも、逆に弛緩して手を引くことも出来ない。肘から先が痺れたように感覚を忘れている。触れた部分から、皮膚を通して流し込まれた濃厚な血液に、侵され染まって沈んでいくように。両手を絡め取られて、引き摺り込まれる感覚。
離れなければ、このままでは、食われてしまう。咄嗟に背筋を戦慄が走る。葛藤と拒絶反応を表出して痙攣が已まない。がくがくと震えて、次第に強張って、やがて力は抜け感覚は鈍麻して意識は闇に呑まれるだろう。

――苦しい。ジョミーは荒い息を吐いた。
息苦しい。
これではまるで逆ではないか。
熱い。
僕は、あなたの首を絞めたいのに。
意識が遠のくままに任せる浮遊感は、快い。
違う。間違っている。

硬直した己の腕を、ジョミーは叱咤した。
意識を引き戻す。身体に降りる覚醒感、世界が最もはっきりと明瞭に映る瞬間。冷えた空気を肌で感じる。籠った熱を発散するにはまだ足りない。首だ。両手の中のそれを、どうにかしなくてはいけない。
腰を上げて前傾し、重心を移せばいい。伸ばした腕の先に負荷をかけて、寝台に沈む両手とその中のもの(......)で上体を支えればいい。分かっている。膝に力が入らない。脚が重くて動かせない。身体中の関節という関節から弛緩するように感覚が抜けていく。懸命に指先を動かしても、手のひらを押し当てる以上の用を為さない。思い通りに力の入らない両手が外れないように維持するだけが精一杯だ。

無理やりに勢いをつけて背を曲げると、寝台に沈む頭部が揺れて、おさまりの悪い髪がシーツと擦れる音がする。それでも首を圧迫するには足りず、まるで頼りない頸部に手を貸して支えてやっているだけのようだ。
無造作に揺さぶられた動きが覚醒を呼んだのだろうか。ただ意識の浮上する時機が合っただけかも知れない。されるがままだった、両手の中の頸部が、微かに動いた気がした。
薄く開いた唇から、微かな苦鳴がこぼれた気がした。
気のせいではなく、伏せた睫が震える。
ジョミーは焦燥に囚われた。

だめだ、早く、早く。
目覚めてしまう。
ブルーが、目を開ける。

ブルーが目を閉じていることが、ジョミーにとって唯一の救いなのだ。
瞳を見れば、分かってしまう。生きているか、生きていないか、知れてしまう。
生を失った身体は眼球から朽ち果てる。細胞が呼吸を止めた瞬間から腐敗へと向かう進行速度と変化の様子は一番に観察のし甲斐がある。どんなにきれいに透き通って美味しそうなゼリー菓子も、気紛れな子どもに食して貰えなければ、それは最早ただ腐敗するだけのものだ。変質した結果、どろどろと醜悪な姿を見せて溶け落ちるばかりの、気分の悪いものだ。
今の自分は、とてもブルーの瞳を直視することが出来ないと、ジョミーは自覚している。全て透過してしまうかの彼の瞳は、時にとても美しく心奪われるけれど、時に同じくらい空恐ろしい。それを通して、自分の内の見たくないものを目の当たりにしてしまう気がするのだ。

だから、見たくない。見られたくない。目を閉じて動かない、そのまま、ただのモノであって欲しい。
見ないでくれ。どうか、その瞳で、愚かな僕の姿を見ないでくれ。

願いも空しく、ジョミーの手の中で、ブルーは緩慢に瞼を上げた。未だ覚醒には至らぬ沈滞した意識レベルを知らせる虚ろな瞳は、眼球ではなくて別の何かが嵌め込まれたかのように無機質で、何ら感情の動きを窺わせない。恐らく、網膜には映っても、脳で認識するまでには至っていない。見えていないのだ。
――そのままで。見えないままでいて欲しい。僕を認識しないで、情動を生起しないで欲しい。ジョミーは思った。自分とブルーのどちらか、あるいは両方の意識が、今ここでぶつ切れてしまえばいいのに。

幾度か力なく瞬きをして、次に瞼の上がった時、ブルーの視覚は正常に認識へ接続した。明瞭となった意識を窺わせる澄んだ瞳で、ブルーは確かにジョミーを見つめた。その瞬間を、ジョミーははっきりと分かった。ブルーの瞳が、ただの物体から、意思を持つものに変容する瞬間が、分かった。手の中にあるものが、ブルーの首という切り取られた物体ではなくて、血の通うブルーの身体だと知れる瞬間が、分かった。
ブルーがジョミーの手によらず、勝手に動いたから。
ブルーの瞳の奥に、その流れる鮮血の色が見えたから。

射抜かれたかの如く、ジョミーは滑稽な体勢のまま身動きがとれなかった。身体を退けるどころか、手を引き戻すことすら出来ない。喉は声の紡ぎ方を忘れ、空しく呼吸を継ぐばかりだ。通過する乱れた息に、言葉が乗らない。目の前で、ブルーの透明な瞳がこちらを見据えて、発言を促している。何を言えと言うのか。
釈明か。
弁明か。
贖罪か。
断罪か。
感想か。
妄想か。
息喘ぎながら、ジョミーはやっと掠れた声を上げた。

「あ――あなたが、いけない」
ブルーは応えた。
「そうだね。僕がいけない。君は悪くない」

静かに肯定してやる声は、もし喉もとを拘束されていなければ、確かな首肯を伴っていただろう。自信の揺らいだ未熟な子どもに、それでいいと言って力づけ、後押しをしてやるように。ごく当たり前の調子で、ブルーは言った。ジョミーが何とか絞り出した言葉は、それであっけなく流されてしまった。
当たり前のように。あたかも、そうするのが自然で、疑問を抱く余地もなく、真っ当なことであるように。ブルーは、行為を咎めなかった。異様な衝動の発露を、非難しようとはしなかった。
僕の首を絞めたいのは、当たり前のことだ(...................)――ブルーが示したのは、そういう態度だった。ジョミーの煩悶も葛藤も何も、ただそれだけのこととして、終わらせた。

ブルーの腕が緩慢に上がって、硬直したままのジョミーの両腕に触れる。そのまま伝い下りて、軽く手首を握られたと思ったら、ジョミーの指先は簡単にブルーの首から外れた。まるで圧迫することが、出来ていなかったのだと、ジョミーはぼんやりと認識した。解放されたブルーの頸部は、指を押しつけた箇所の皮膚が仄かに赤く色づいていたが、一時的な表層だけのものに過ぎず、既に薄れかけている。行為の証は、痕も残らず、消え失せるだろう。

白い首筋を廻って淡く浮かぶ指の痕を、端から端までゆっくりと目で追う。触れれば傷つけてしまう手の代わりに、視線でそっと撫でながら、ジョミーは思った。

あなたはどうして、僕にこんなことを望んだのだ。













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